東京高等裁判所 昭和59年(う)378号 判決
原判決は,罪となるべき事実の第二として,被告人が,「昭和58年4月26日午後9時20分ころ,(静岡県)掛川市日坂554番地の1付近道路において普通貨物自動車を運転し,浜松方面から静岡方面に向かい,時速約50キロメートルで進行中,走行車線から左側の登坂車線に進路を変更するにあたり,左後方の安全を確認しないで進路を変更したため,左後方から進行してきた原田繁運転の普通貨物自動車右後部に自車左前部を衝突させ,もって他人に危害を及ぼすような速度と方法で運転した」との事実を摘示し,これに道路交通法70条,119条1項9号を適用している。
いうまでもなく,有罪判決には,罪となるべき事実として,当該犯罪構成要件に該当する事実を具体的に判示しなければならないところ,道路交通法119条1項9号によってその違反が処罰される同法70条は,「車両等の運転者は,当該車両等のハンドル,ブレーキその他の装置を確実に操作し,かつ,道路,交通及び当該車両等の状況に応じ,他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなければならない。」と規定しているから,被告人に対し有罪の判決をするには,被告人がその運転する自動車のハンドル,ブレーキその他の装置を確実に操作せず,あるいは道路,交通及び右自動車の状況に照らして,他人に危害を及ぼすおそれのある速度,方法で右自動車を運転した旨の具体的説示をすべきものである。
なお,他人に危害を及ぼすおそれのあるような速度や方法で運転した場合,現実にもなんらかの事故が発生してしまうことも少なくないと思われるけれども,右法条は,いわゆる危険犯の規定であって,事故の発生を構成要件とするものでないことはもちろん,人身被害を伴わなかったため刑法211条に問擬することのできない,いわゆる物損事故において,事故の発生そのものにつき運転者の責任を追及するための過失衝突罪ともいうべき罪を定めたものでもないことに留意しなければならない。
このような観点から原判決をみると,前記第二の事実摘示のうち,「前記日時,場所において」「浜松方面から静岡方面に向かい」との部分は,犯行の日時,場所を特定するだけのものであり,「もって」以下の部分は,本来の事実摘示ではなく,法律的評価の記述であるにすぎないほか,「左後方から進行してきた原田繁運転の普通貨物自動車右後部に自車左前部を衝突させ」との部分は,さきに触れたとおり,構成要件該当事実の摘示ではないから,不必要であるばかりか,むしろ不相当な記載というべきである。
そこで,これらを除外して考えると,「前記車両を運転し」「時速約50キロメートルで進行中,走行車線から左側の登坂車線に進路を変更するにあたり,左後方の安全を確認しないで進路を変更した」との部分だけが一応構成要件該当事実の具体的摘示にあたることとなるのであるが,時速約50キロメートルの速度は,被告人の運転していた普通貨物自動車のいわゆる法定最高速度を超えるものでもなく,それ自体で直ちに他人に危害を及ぼすおそれがあるとはいえないし,安全確認を欠く進路変更は,不適切な運転方法であるには違いないけれども,たまたま近くに後続車両が存在しないなど,道路や交通の状況いかんによっては,必ずしも常に他人に危害を及ぼすおそれがあるとはかぎらないから,右の程度の判文からは,被告人の運転方法が,なぜ他人に危害を及ぼすおそれのあるものであったといえるのかを知ることができないのである。換言すれば,原判決の前示事実摘示は,被告人の運転方法が,道路,交通及び当該車両等の状況に照らし,他人に危害を及ぼすおそれのあるものであったことをうかがわせるに足りる具体的説示をしているものとはいえず,道路交通法70条違反の罪の事実摘示としては不十分である。
そこで原判決には右の点において理由不備があるとしなければならないところ,原判示第二の事実は同第一(前記日時,場所において,酒気を帯びて前記車両を運転した)の事実と併合罪の関係にあり,これらにつき1個の刑が科されているので,原判決は全部破棄を免れない。
ところで,原判決は,前記のとおり,原判示第二の事実に道路交通法70条,119条1項9号を適用し,右事実を故意犯と認定しているのであるが,原審で取り調べられた関係証拠によれば,被告人は,原判示の日時,場所において,原判示のように進行中,自車右側を追い越そうとした車両を避けるため,とっさに左側車線内に進路を変更したことがうかがわれるけれども,その際,右追越車両に気をとられ,原判示の原田車両と接触するに至るまで,左側の登坂車線の交通状況については全く認識を欠いていたこともまたうかがわれるのであって,左側車線を自車間近に進行してくる原田車両を確定的に,もしくは未必的に認識しながら,あえて危険な進路変更をしたなど,故意犯の成立を認めるに足りる事実関係を認定すること(ただし,その場合には,道路交通法26条の2第2項,120条1項2号の罪が成立することにより,同法70条,119条1項9号の適用が排除されることもありえよう。最高裁昭和46年5月13日第二小法廷決定・刑集25巻3号556頁参照。)は困難である。
もっとも,右証拠によれば,被告人が,原判示の日時に,原判示場所付近の交通ひんぱんな登り坂片側二車線の道路上で,原判示のように進行中,前記のような事情で左側の登坂車線内に向け進路を変更しようとしたこと,このような場合,運転者としては,同車線内の交通状況,特に自車左後方の安全を確認したうえ,同車線内を進行中の車両の進路を妨げることのないような方法で進路を変更すべき注意義務があるのに被告人はこれを怠り,追越車両に気をとられ,そのような確認をしないまま,漫然ハンドルを左に切って進路変更をしたこと,その結果折から左側の登坂車線を進行中の車両をしてその速度及び方向を急に変更することを余儀なくさせるような態様で自車を急激に左側登坂車線内に進入させたことなどがうかがわれ,もしこのような事実が認定できるのであれば,過失により,道路及び交通の状況に照らし,他人に危害を及ぼすおそれのある方法で運転した旨の道路交通法70条,119条2項,1項9号に該当する過失犯の成立する余地もあると考えられる(最高裁昭和48年4月19日第一小法廷判決・刑集27巻3号399頁,同昭和46年10月14日第一小法廷判決・刑集25巻7号817頁参照。)。
しかし,このような認定をするためには,訴因においてもその点を明らかにしてこれを攻防の対象としたうえ,事実を確定すべきであるから,訴因変更の手続及びこれに基づく事実審理を必要とするほか,右条項の法定刑は,原審が適用した同条1項の場合と異なり,罰金刑のみであるから,量刑についてもあらためて検討を要するなど,なお審理を尽くすべき点があるので,本件は当審における自判に適せず,原審に差し戻すべきものと認める。